悟りとは、難しく深いテーマですが、一つの考察として今日の話を聞いて下さい。
悟りとは 阿部敏郎さんの「さとりの授業」より
悟りについて、阿部敏郎さんの本に、すごく分かりやすい例えの文章があります。
阿部敏郎さんの「さとりの授業」より
実体はスクリーン毎日毎日、 色々なことが目の前を通り過ぎていきますが、そんな現象に巻き込まれることなく、いつも穏やかで一転している存在が僕たちの中にいます。
その部分はちょうど映画のスクリーンみたいな存在です。
僕たちはいつも、そのスクリーンに映るドラマに夢中で、スクリーンの存在を忘れています。
そして刻々と変化する映像に一喜一憂して、心や体をすり減らしているのです。
でも本当の自分は、 移り変わる映像ではなく、その背後にあるスクリーンです。ドラマの出演者としての自分から、スクリーンとしての自分に飛び移ることが、「さとり」と言われている現象です。
それは映像(ドラマ)の中では決して起きません。
次元が違うのです。
映像は実体ではありませんが、スクリーンは実態です。人生は映画のドラマであり、本当の自分はそれを映し出しているスクリーンです。
どんなに残酷な映画でも、 どんなに辛く悲しい映画でも、スクリーンは何一つ影響されていません。
スクリーンの自分を自覚した時、映像現象に右住左住することがなくなります。
阿部さんは、自分達の本質は、ドラマの主人公の方ではなく、スクリーンの方だと言います。
自分は映像の中の出演者ではなく、スクリーンそのものだと思えばいいわけです。
別の言葉で言い換えると、個の自分の方ではなく、全である自分、神である自分を自覚するという事かと思います。
並木良和さんの「目醒めのパスポート」より
もう一つわかりやすい例えの文章をご紹介します。
並木良和さんの「目醒めのパスポート」より
実は、 僕たちが現実だと思っている世界は、 目の前に映し出されている臨場感のある3 D 映画のようなものに過ぎないのだと言われたら、あなたはどう感じますか?僕たちは観客席に座って、 目の前に映し出される映画のストーリーを、ハラハラドキドキしながら見ているわけです。
と同時に、「真実の」僕たちは観客席にはおらず、映写室で好きな映画を自分で選んで映し出しているのです。
この事実について、 詳しくお話ししていきます。
僕たちが地球に生まれてきたのには理由があります。
それは、「制限」や「不自由さ」を体験するためです。
あえて完全な自分の波動を落として、 様々な体験をするためにやってきたのです。
本来の僕たちは、神なる存在です。
できない、やれないということは、何一つないのです。
本来の自分達は、神なる存在で、「できないということはない」とのことです。
なんでもできる存在だからこそ、自分と違うあり方を体験してみたくなった、だから「制限」や「不自由さ」を体験したくてこの世界にやってきたとのことです。
逆に言えば、「神である存在の自分を思い出すこと」により、制限を外していくことができます。
瞑想をする事で全である自分を感じやすくなる
できるだけ瞑想の時間を取ったり、 ボーっとする時間を取ることで、全である自分を感じやすくなります。
ただ目を閉じていると、肉体の境目がなくなり、自分の意識をどこまでも広げることが出来ます。
私の場合ですが、瞑想中に現実が良い方向に動いたり、変化する時が多々あります。
叶ってほしいと期待している時ではなく、無心でぼーっとしている時です。
肉体の自分の方ではなく、全である自分もいて、本質は全である自分の方だと自覚する事で、目の前の出来事に強く影響を受けなくなります。
自分達の存在が神と同じなら、見た番組を選択できるように、自分の人生の番組もいつでも変えらます。
自分で今のストーリーを選んでいるとしたら?
それを好きなように変えれるとしたら?
どんな風に変えたいでしょうか